代表者コラム
Column
特攻の真実 アメリカ側の事情とは?
ビジネス陰陽師の吉川です。
本日まで、知覧にいました。
今日の気づきを少しお話しします。
なぜ「大東亜戦争」→「太平洋戦争」になったのか?
今回の内容については、
教科書などでは語られていない
視点でのお話になります。
第2次世界大戦は、
日本側の視点で言うと「大東亜戦争」
しかし、戦後、その名称は
「太平洋戦争」に書き換えられ、
定着しました。
なぜでしょうか?
「太平洋戦争」だと、太平洋を挟んで
アメリカと日本が、
覇権を争った戦争、というイメージでは
ないでしょうか?
一方で、「大東亜戦争」の名前の
由来は、日本が掲げた戦争の大義が、
アジア一帯を欧米の植民地支配から
解放するためだったからです。
日本が先頭に立ち、
アジア各国を欧米の支配から
日本帝国の保護下に映し、
いずれ独立させる方向での戦いでした。
当時、世界を欧米の支配下に置くべく
動いていた列強の国々の中で、
最後に抵抗を続ける国が日本でした。
したがって、アメリカからすれば
大義をアメリカにあるようにした上で
日本をうまく戦争に引きずり込み、
日本を徹底的に叩き、
完全征服する必要がありました。
「太平洋戦争」とは
太平洋を挟んでアメリカに攻撃をした
日本に対する制裁、の意味合いで
付けられた呼称だと思います。
特攻が最後の抵抗手段
日本への石油の供給を立ち、
(ABCD包囲網ですね)
日本が飲めない条件を突きつけ
(ハル・ノートです)
日本に開戦に踏み切らせたアメリカは
最初こそ苦戦したものの
やがてその物量で日本を圧倒します。
そして日本の南方から攻め上がり、
ペリリュー島、硫黄島、沖縄の順に
日本の重要な拠点を次々と奪取。
日本の航空戦力、海軍戦力を
叩きに叩きました。
基地を奪い、戦線が北上するにつれて、
爆撃機を日本本土へ飛ばせるようになり
(燃料や爆弾等の補給が可能になったため)
日本本土への空爆も可能になり、
日本の都市を、軍需工場や
軍の施設だけではなく
民間人もろとも爆撃していきました。
そんな絶望的な状況の中、
抵抗手段の1つとして
採用されたのが特攻作戦。
パイロットが100%亡くなってしまう、
当時としてはあり得ない作戦でした。
運命を受け入れた隊員たち
特攻作戦は、
アメリカ軍側の恐慌を引き起こし、
一定の成果を上げました。
しかし当然ながら、アメリカ側の防御策が
施され、末期にはほとんどの機体が
アメリカ側の巡洋艦や戦艦に届く前に
撃ち落されるようになりました。
当時の日本の特攻は
そんな状況下で行われていたのです。
もちろん情報統制が敷かれていたとはいえ
日本兵もそうした状況が分かっている人も
多かったでしょう。
それでも大多数の日本兵は
祖国、生まれ故郷を
アメリカの空爆や直接上陸攻撃から守るため
そしてたとえ守れなくても、
少しでもその実現を遅らせ、
疎開できる人を増やすために
特攻機に乗る決断をしたのです。
最後に新型兵器である原子爆弾が
日本本土に投下され、
民間人が数十万人殺傷され、
日本は無条件降伏を受け入れざるを
得なくなり、終戦となりました。
そうした状況下で、自分に課せられた
運命を20歳前後で受け入れた上で、
自分が生きる意味、死んでいく意味を
見出した若者たち。
そうした方々の気持ちに現地で
想いを馳せることのできる
知覧での研修でした。